その日には、
多くの者が、わたしにむかって
『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。
また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』
と言うであろう。
そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、
『あなたがたを全く知らない。
不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。
それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、
岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。
雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。
岩を土台としているからである。
また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。
雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。
そしてその倒れ方はひどいのである。
<マタイによる福音書 7:22-27>
***
なぜ
イエス様はこんなにも
強い言葉で語られたのでしょうか?
そのためには
その背後にある
イエス様の事情と心情を知らなければなりません
それは
次の言葉に示されています
***
イエス様が二十歳になるころ、
イスラエル民族はだんだんと疲弊していきました。
ローマの圧制下に苦しんでいたのです。
このように将来の希望がすべて遮られ、
たそがれの道をたどっていくイスラエル民族を見つめるとき、
イエス様は
言うに言えない民族に対する愛に燃えました。
イスラエルを前に、
民族に対する愛ゆえに
泣きながら、
神様の前にどれほど訴えたことでしょうか。
イスラエル民族は、そのようなことを知らなかったのです。
ですからイエス様は、時がたてばたつほど
焦りを感じるようになりました。
四千年間、
神様が苦労して準備されたイスラエルが、
家庭と民族と教団が一つになれなかったので、
イエス様の心の中にできた怨恨は大きかったのです。
イエス様は自分の立ち得る土台がないことを嘆きました。
ユダヤ教は誰を待ち、
探し求めなければならないのでしょうか。
歴史的に数多くの先祖たちが、
犠牲の供え物となって死の道を行きながら
築いてきた土台というのは、
イスラエルを幸福の土台にするためのもの
ではなかったのでしょうか。
そのような民族が
メシアである自分のことを知らないのですから、
それを見つめるイエス様の心情は、
どれほど孤独で
悔しかったか
ということを
知らなければなりません。
イエス様は
民族を愛する心が大きければ大きいほど、
いらだちを感じる反面、
神様がどれほど哀れな方か
ということを知ったのです。
そのような立場でも
神様を恨まず、
神様を抱き締めて
孝行の道理を果たそうとした
イエス様の切なる心情を知らず、
四方八方どこにも
彼を引き止めてくれる人はおらず、
目の前に現れるものはすべて、
かえって神様にとって悲しみとなるもの
ばかりだったのです。
そのような悲しみを抱いて、
神様を慰めてさしあげなければならない
イエス様の事情は、どれほど
不憫なものだったでしょうか!
またユダヤ民族の前で追われる
イエス様を見つめられる神様は、
どれほど
悲しまれたでしょうか!
イエス様は、
そのようなことを考えて
痛哭せざるを得なかったのです。
(マルスム選集26-37,1965.12.26.)
***
神様は
摂理の為に苦労し涙してきた
あなたを覚え
今もあなたを愛しています
そして
あなたが祝福家庭として
その責任を最後まで果たして
個人として
家庭として
永遠の豊かさに溢れた
One Family under God
神様の下の一家族
の一員となることを願っています
そうなりますように
ほんとうに
そうなりますように