統一教会(UC)は、
文鮮明師が授けてくださった新しい葡萄酒を、古い皮袋に入れていたのです。
多くの統一神学校(UTS)の教授たちが、私たちの運動の中で、
自分たちにとって最も関係があり重要であるとして提起していたイシューは、
「誰が救われて、誰が地獄に落とされるか」ということでした。
UC の一世たちは、統一運動を、全く間違った方向に持っていきました。
明らかにされるべきだった真理は、「新しい葡萄酒」であるはずなのに、
古い皮袋に入れられることになってしまったのです。
人類の意識を高めて、神様に対する理解を全く新しいレベルに引き上げるべきだった真理が、後方に押し戻されて、
人類を過去数千年間、互いに分断してきた歴史的な限界を示す、元の状態になってしまったのです。
新しい葡萄酒は、新しい皮袋に入れなければならないのです。
そのような意味合いで、文鮮明師が統一教会の時代が終焉し、
世界平和統一家庭連合(FFWPU)の時代が始まったことを宣布された時、
それはとてつもない勝利だったのです。
なぜならそれは、神様の創造目的が、
その新しい皮袋によって実現されうる時代に入った、ことを意味していたからです。
文鮮明師は、世界平和統一家庭連合(FFWPU)に、その新しい皮袋となることを意図されました。
しかしながら、リーダーたちが、
その新しい皮袋を自分たちの自己中心的なアジェンダで腐敗させたのです。
(祝福家庭のための教え より)
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祝福家庭たちが悟っていないことの一つは、
自分たちが、キリスト教信条のフレームワークを採用してしまっているということです。
この重大性は、祝福家庭たちが必ず理解する必要のあることの一つです。
原理講論は実際このキリスト教信条を破壊するために書かれたものでした。
弟子たちが統一教会を作り上げ、それを自分たちの功績だと言っています。
しかし、それは文鮮明師の教えとは、全く関係の無いものでした。
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私たちの運動は摂理的な運動です。
私は、統一教会は文鮮明師が創り出されたものとは見ていません。
私は、統一教会は一世たちが創り出したものだと見ています。
彼らが教えていたことの多くは、非常にシンプルでした。
彼らは韓国の儒教を採用したのです。
彼らは、家族や親に侍るという観点を説明する際に、
韓国に伝わる倫理を採用したのです。
彼らは、私たちの運動が人類をそこから解放し、そこから遠ざけようとしたものを、
わざわざ採用したのです。
それが私たちの運動の基礎になってしまいました。
私は決して、そのような種類のものと同じ志を持っているというようには振舞えません。私は何度、彼らが創り出したものには、決して入会しなかったであろう、と話したことがあるか分かりません。そのようなものに、私が入会することはありえないのです。
しかし、文鮮明師の教えられた摂理のためであれば、私は命さえも投げ出します。
文鮮明師の教えられた摂理は、熱望だからです。
もし一世たちに次のように尋ねてみたら、
「あなたは統一教会に魅力を感じたのだと思いますか?」彼らの多くは恐らく、
「そうです」と答えることでしょう。
なぜなら彼らは、教会こそが、自分たちのコミュニティだと考えているからです。
動機が全く間違っています。
あなたたちが信じているものは何ですか?
あなたの信仰という観点で、あなたを動かす熱望とは何ですか?
あなたの信仰生活とは何ですか?
それがあなたとあなたの家族に意味するところは何ですか?
その信仰はあなたに
どのようにコンパス(羅針盤)を読むように教えてくれるものですか?
あなたの目的は何ですか?
単にあなたの好きなお友だちや人々、物の近くにいることを意味するのであれば、
あなたは完全に、ポイントを間違って捉えていると私は思います。
そうではないですか?
ですからどのように考えどのように理解するかが本当に重要なのです。
そうではないですか?
絶対的にそうです。
なぜならそれがあなたの現実を決定することになるからです。
私たちの運動で起こったことは、なぜ起こったと思いますか?
それは祝福家庭の圧倒的大多数が、間違ってしまったからです。
単純明快に説明するなら、
祝福家庭たちは、
自分たちの霊的生命にフォーカスしていなかったということです。
祝福家庭たちは、
自分たちの霊的生命、以外の、全てにフォーカスしていました。
私が言ったことを思い出してください。
あなたが何を考え、どのように理解するかが、現実を決定します。
そのような訳で、あなたが信じることを決定する神学が、かくも重要になるのです。
(FWS2021より)
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わたしが統一教会から離れたのも、
祝福家庭としていかにあるべきかという良心の声と、あまりにもかけ離れていった統一教会に疑問を感じ始めたからでした。
しかし、統一教会時代にいたときになしてきた、私の言動によって、心に傷が残っている方や、私に関わってきたことで、いったい何だったの!と憤っている方もおられるのも事実です。
今も、一人でボーッとしているときなどは、その方の姿が浮かび、申し訳なく思う日々です。
どうか寛大なる心でお許しいただけますよう、心から心から願いお祈りしています。