本 論(1) つづき2
顯進様がどのような方であるかについて具体的にお話致します。
1. 顯進様の人生と人格
4) 顯進様はなぜ、地位を先立てなかったか?
第四に、顯進様は何故地位を先立てなかったか、に関することです。
顯進様が1998年、お父様から後継者として選ばれた後、政治的であったり、地位を先立てたら、また、お父様の名前を利用していたら、より楽に公的な生活を続けられたであろうし、ご自身の位置を維持できたかもしれません。
その後、お父様は顯進様を立てる為のみ言葉を何度も語られました。
また反対に、間違った報告によるお父様の措置により、困難な状況を経験されたことが、一度や二度ではありませんでした。
しかし、どのような場合においても、顯進様は一度も自分の地位を先立てて、足場を固めようとしたり、困難を容易に避けて行こうとはされませんでした。
後継者であることを宣伝されず、口にすることさえされませんでした。
顯進様が1998年以降、2016年までの約20年間、一度でも私が「お父様の後継者だ」「お父様の長子だ」という表現を公開的にされたことがあるでしようか?
また顯進様が一度でも「これはお父様の指示なので従え」と言い、お父様の権威と名前を利用されたことがありましたか?
一度もそのようにされたことはありません。
顯進様は、ご自身の地位を掲げて、お父様の権威を利用するのではなく、常に自ら霊的道徳的権威を立てて人と組織を率いて行こうとされました。
お金と地位と権力よりも常に真理と正義と善が基準となり、
教会組織よりは、神様の夢が動機となって動く真の主人の文化を創ろうとされました。
これは顯進様にとって大変困難な挑戦でした。
しかし、顯進様はすべてを失うことがあっても、その意思を曲げることなく、最終的にはすべてが自然に従順となり、従うことができる真なる権威と先例を立てられたのです。
これに関連して、一つ私が経験した例があります。
2008年7月、真の父母様の専用ヘリコプター墜落事故が起きた時、お父様は顯進様を一番最初に病室に呼ばれました。
そして病室に顯進様と他の二人の弟が到着すると、お父様は3兄弟が兄を中心に一つにならなければならないというみ言葉を語られました。
お父様は、具体的に國進氏が顯進兄さんの右腕、亨進氏が顯進兄さんの左腕になれと言われました。
み言葉を聞いて病室から出て来た顯進様は、この事実を外に知らせるなと言われました。
その理由は、弟らが本当に兄と一つになるには、お父様が言われたからと言ってできることではなく、兄の権威を心から認めることができてこそ可能だと言われたのです。
顯進様の意志にしたがって、この内容は秘密にしていましたが、最近になって公開されるようになりました。
5) 顯進様はお父様の摂理的なみ言葉と方向と目標の前に絶対的に従った方だったか?
第五に、顯進様はお父様の摂理的なみ言葉と方向と目標の前に、絶対従順する方であったのか、に関することです。
顯進様はお父様のみ言葉に従わなかったと教会は非難して来ましたが、
それはとんでもない話です。
顯進様の人生を振り返ってみると、
誰よりもお父様の摂理的なみ言葉に絶対的に従って来られた方であることを知ることができます。
ここで言うお父様の摂理的なみ言葉とは、
日常的な組織運営について与えられる指示事項や指導内容ではなく、
神様の摂理的な大きな流れと目標について与えられるみ言葉です。
これは本質的に、日常的な指示とは次元が違うものです。
端的に言えば、命をかけなければ、決して達成できない目標である場合もあり、統一運動全体の命運に関して与えられる指示である場合もあります。
顯進様は、こうした指示とみ言葉が神様のみ旨をなすために命をかけておられるお父様の願いであり、摂理的な大きな目標をなすために必ず必要な内容であることを悟っておられたため、一度も自分の事情を優先されず、どんなに難しい現実的障壁があったとしても、謙虚にその旨を尊重して来られたのです。
これに関するいくつかの例を挙げてみましょう。
最初の例は、お父様の摂理を助けるために、ソウルオリンピックまでわずか数年前にして乗馬訓練を始め、大韓民国代表としてオリンピックに出場されたという例です。
真のお父様は、新しい成約時代の開門を前に共産主義の塀を崩し、全世界のアベル圏とカイン圏を代表する民主、共産両陣営を一つにする摂理を陣頭指揮してこられました。
この時、大韓民国で開催された1988年ソウルオリンピックは二度にわたる片肺オリンピックを超えて、初めて民主・共産両陣営の若い選手たちが参加する歴史的なオリンピックであったため、お父様はこのオリンピックに対して物心両面の精誠を投入されました。
この時、お父様は顯進様に、大韓民国の国家代表として出場するようにと語られました。
数十年訓練しても国家代表に選抜されるかどうか分からないのに、わずか数年前に乗馬訓練を始め、国家代表にまでなるというごとはほぼ不可能に近い指示なのです。
恐らく、このような指示を受けたほとんどの人は、いくらお父様の意志が厳しく重いと言っても、現実的にできないことを理由に受け入れないか、しぶしぶと受け入れるふりだけしたことでしょう。
ところが顯進様は違いました。
お父様が乗馬を勧められた理由が単純なスポーツ活動にあるのではなく、神様の重大な摂理的計画の一環であることを知っておられたために、顯進様はひたすらお父様の摂理を助けたい一念で学業まで後回しにして、全力を尽くして乗馬訓練に取り組まれたのです。
こうした顯進様の基準と必ずやり遂げることができるという信念があったため、顯進様は堂々と国家代表選手に選ばれ、ソウルオリンピックに出場することができました。
第二の例は、摂理的に大きな課題と困難が襲って来た時、真のお父様の長子権を継承した後継者として任命され、統一家の危機を収拾した例です。
顯進様は、1998年に家庭連合世界副会長に就任され、真のお父様の長子権を継承した後継者として任命されました。
この時から顯進様は正式に公的な使命を遂行されましたが、当時、統一家は摂理的な大きな枠組みで見れば、荒野時代から定着時代に移る重大な過渡期にありました。
同時に、現実的にも非常に難しい危機的状況に直面していました。大韓民国では、国家経済全体が不渡りになる経済危機を経験し、統一グループも不渡りになってぐらつき、アメリカでは洪蘭淑氏の問題で教会全体が衝撃を受け、多くの2世が信仰を失い教会を離れる事態まで発生しました。
このような時に顯進様は、謙虚に神様と真の父母様の前に長子としての職分と責任を果たすことを決意され、混乱した統一家の問題を再び収拾し、祝福家庭の子女たちを正しい道に導くことを天の前に約束されました。
顯進様は就任されるやいなや、孝進様を追い出そうとする米国指導者らの前で、私の死体を踏み超えて行かない限り、絶対に兄を追い出すことはできないと語られ、最後まで真の家庭を守られました。
また、数回、世界を巡回しながら、全てが真の家庭を尊敬することができる霊的、道徳的基盤を強化させていくと同時に、定着時代に必要な新しいリーダーシップパラダイムと祝福家庭文化の定着のために力を注がれました。
第三の例は、2008年に南米パラグアイの危機を収拾して、南米からGPF運動の世界的な風を起こした例です。
2007年頃、パラグアイでは教会指導者の誤りにより、神様の摂理の為に投資した60万ヘクタールの土地全体が国に没収され、統一運動が追放される最悪の危機に直面しました。このパラグアイの土地がなくなれば、経済的な損失はともかく、90年代からお父様が投入された南米摂理の基盤全体が崩れる可能性があるため、絶体絶命の危機の瞬間でした。
この時、お父様は顯進様にこの緊急な問題解決を願われたのです。
2008年1月頃、顯進様はお父様の指示を受けると直ちに、全てのスケジュールを後回しにして、初めてパラグアイを訪問しました。
そして最終決定権を握っていた大統領に会って談判しました。
2時間以上緊張感あふれる激論が展開されました。
プライドの高い一国の大統領を相手に外国から来た若い東洋人が繰り広げる討論を、その場に同席した当時の米国大統領の実の弟、二ール•ブッシュ氏が手に汗を握って見守っていたと言います。
このような命をかけた談判で大統領の考えを変えたために、パラグアイの土地は守られ、さらに進んで、その後、パラグアイ摂理は驚くべき進展を見通せるようになりました。
この勝利の報告を受けられた真のお父様は、顯進様に南米全体に1万2千人の平和大使を教育し組織するようにと、また別の特命を与えられ、顯進様は、そのみ言葉を奉じて、2008年に南米6カ国巡回から始めて、全世界にGPFの風を呼び起こされたのです。
最後の例は、2009年以来、家庭連合が統一教に再び戻り、天宙平和連合を統一教に従属した宣教機関に転落させて、摂理を正反対の方向に変えた時、
顯進様は彼らの考えに屈することなく妥協せず、正しい摂理的方向を守って来られたということです。
顯進様がそうしたのは、お父様が統一教会時代を終えて家庭連合時代を開門されたことと、天宙平和連合を通じて進もうとされた摂理の方向を正確に見抜いておられたからです。
顯進様が2009年11月にGPFを独立した機関として創設された目的も、
天宙平和連合が持っている本来の摂理的な使命と目的を正しく継承するためのものであり、
2017年末に家庭平和協会を創設される目的も、
家庭連合が持っている本来の摂理的な使命を継承し、その目的を果たしていくためのものです。
このように顯進様は神様のみ旨をなして差し上げるために、全力投球されるお父様の摂理的方向と目標について、その流れを正確に把握され、絶対的に従ってこられ、如何なる指示や願いに対しても常に最高の基準と実績で、その旨を奉じてこられました。
こうした内容が食口にきちんと知られなかったのは、
顯進様自らが公的活動をしながら、自分の活躍の様子や実績を前面に立てて宣伝されず、いつもすべての功績をお父様と真の家庭の前に返されたからです。
さらに決定的な要因は、お父様の周りの指導者たちがこのような内容を、食口に正確に知らせるどころか、逆に顯進様が目立つことを警戒して、更には嫉妬したために、食口はこのような詳細な内容が分からなかったのです。
つづく