本 論(2) のつづき2
2. 顯進様の信仰と神学的観点
5) 文化が優先か、構造が優先か?
第五の質問は、「文化が優先か、構造が優先か?」です。
一般的に、ある指導者が組織の責任を任せられるようになると、一番先に何からしますか。
理事会を変えるなど、人を替えることからするとか、組織のシステムを変えることに一番先に手を付けませんか。
顯進様はこれとは全く違ったタイプの指導者でした。
顯進様は組織革新より文化改革に集中されました。
この為に「Culture drives structure」、即ち「文化が構造を導く」という名言を残されました。
顯進様は何故そうされたのでしょうか。
顯進様は6千年間続いた摂理の大きなパラダイムが変わりつつあるのを見られたからです。
復帰摂理時代から成約時代への大転換、
荒野時代から定着時代への大転換、
父母責任時代から子女責任時代への大転換。
このような大転換の時代において、長年にわたり復帰摂理に手なづけられてきた祝福家庭の生き方のパラダイム、指導者のリーダーシップパラダイムが変わらなければならないと見られたからです。
顯進様は今も変わらない基準を持って公的な道を進んでおられます。
このような顯進様の影響を受けた指導者たちは、摂理の現場で良い成果を挙げています。
一例として、フィリピンのGPF組織を挙げることができます。
今年(2017年)フィリピンGPFは、数年間の活動の末にフィリピンにある数万のNGOの中で、約300程度の団体だけが持っている最高地位を獲得しました。
一般のNGO団体にとってこの資格を得ることは夢のまた夢です。
一度資格を取ると、物凄い恵沢が与えられます。
驚くべきことは、フィリピンGPFの職員は、パートタイムを含めて9人しかいないという事実です。
文化がどれほど大きい力を発揮して、成功的な結果を収めるのかを見せてくれる例です。
これまで顯進様は想像できない迫害を受けられながらも、
このような原則を守ってこられ、その結果、世界が認める基盤を築いてこられましたが、
全く同じ期間にこの統一家はどのような道を歩んできたでしょうか。
彼らが本当に見せて誇ることができる実体的な文化や精神がありますか。
そういうものがないので、人だけ替え続け組織だけ改め直しているのではないでしょうか。内的な意識改革よりは外形的な変化にだけ気を使っているのではないですか。清平に豪華な建物を造ることも、行事の度に派手な文化行事を先立たせるのも、この教会が何に執着しているのかをそのまま示している例ではありませんか。
お父様の権威を継承した方であれば、今何を優先すべきですか。
文化ですか、構造または組織ですか。
その方が病んだ統一家を治療するとすれば、一番先に何を革新しますか。
腐敗してしまった統一家の文化ですか、それとも持って行く必要すらない統一教会の組織ですか。
6) 基元節は進行形か、完了形か?
第六の質問は「基元節は進行形か、完了形か?」です。
この質問は顯進様の第二、第三、第四の質問と全て関係があります。
皆さん、基元節とは何でしょうか。
この地上でお父様のメシヤの使命を全て成して新しい歴史が出発する日です。
それでは、お父様は基元節として予定されていた日から約6カ月前に聖和されましたが、その基元節が既に来たと思いますか。
顯進様は基元節を宣布するには、この地上に本然のアダム家庭である真の父母と真の家庭が定着しなければならないと見ていらっしゃいます。
そしてこの真の家庭が定着しようとすれば、真の父母と真の家庭だけでいいのではなく、カイン圏を代表する祝福家庭がアベル圏を代表する真の子女と一つにならなければならず、何よりも次世代を率いていく中心として立った長子と一つにならなければならないと見ておられます。
1998年にお父様が顯進様を立てられた時、何故全ての祝福家庭が顯進樣と一つにならなければならないと強調されたのかを、この脈絡で理解することができます。
それ故に、祝福家庭にも、基元節を成す為の責任があります。
この基準から見ると、今、真の父母と真の家庭は定着していますか。
カインとアベルが一つになり、祝福家庭が責任を果たしましたか。
当然そうではなく、これはお父様以後の摂理に責任を負った方の課題として残されました。基元節は進行形であって完了されたのではありません。
ですから今年(2017年)の真の神の日に、顯進様は
真の家庭を再び収拾し、基元節を再び成す為の道を出発することを宣言され、
祝福家庭には、全て悔い改め、(顯進様)と一つになれと言われたのです。
ところが今、家庭連合やサンクチュアリ教会を見ると、
各々別の日を定めて基元節を記念しています。
彼らは基元節を迎える為のあらゆる条件が成立したと見ています。
基元節に対する観点が顯進様と根本的に違うということが分かります。
神様の摂理に責任を負った中心人物は、
この基元節に対し如何なる観点を持っている方ですか。
7) 祝福は実際か、概念(条件)か?
第七の質問は「祝福は実際か、概念または条件か?」です。
これは顯進様の第三の神学的質問である「真の父母と真の家庭の顕現の意義」と
第四の神学的質問である「祝福家庭の責任」につながる質問です。
食口たちが顯進様についていくと言った時、家庭連合は顯進様側に行けば祝福も受けることができず、聖和式も行うことができないと脅しました。
このような事情を聞かれた顯進様は、
彼らは間違いなく祝福と聖和の意義と価値を分からずにおり、これを持って食口たちを束縛し、教会体制の維持の道具として使っていることに嘆息されました。
そして混乱している食口たちに、心配せず私についてこいと言われました。
それ以後、顯進様は、祝福は実際か、概念、または条件かについて多くのみ言葉をくださいました。
直接、祝福式を挙行され、
家庭平和協会主管の神山威会長の聖和式には特別なメッセージを送られたりもしました。
顯進様にとって祝福とは、
受けさえすればいいという天国のドアを開ける鍵ではありません。
神聖な人間の責任分担遂行を通して各家庭の構成員が正しい先例を立て、
神様を中心とした本然の家庭を作って行くための出発なのです。
神様は祝福家庭がどのように生きたかということに相対されるのであって、
どのように考え信じるかに対して相対する方ではありません。
したがって祝福を受けた家庭は、
各自の努力と後代の継続する努力によって、
祝福の結実を実際的に表さなければならない責任があるのです。
もし祝福家庭が具体的な生活を通して、漸進的に結実を表すならば、
結局その祝福は、人類の普遍の理想として拡散され、
人間が追求する最高の善と幸福の価値基準として定着し、
これによって究極的な、平和理想世界が到来すると見ているのです。
この祝福は最初から全ての人類を対象にしたものであり、
ある教会の専有物としてその教会の体制を宣伝する宗教儀式ではありません。
より根本的には真の家庭が定着するようになるにつれて、
この祝福は真の家庭と切り離すことができない祝福の根が
真の家庭なのだということが表れるようになるのです。
結 論 へつづく