御言葉を見てみます
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人間の堕落によって福地の世界を失ったために、
歴史的に数多くの人物が
福地を開拓するために身もだえして死んでいきました。
そして歴史は、今日まで
血にまみれた闘争の歴史を展開してきたという事実を、
私たちは否定することができません。
アダムは福地で神様と共に幸福を謳歌し、
神様と共に天上天下のすべてのものを貴く感じ、
神様に代わって被造世界を治めなければならない総責任者でした。
しかし、アダムは
世の中を創造された神様と一つになる場を設けることができませんでした。
それが堕落なのです。
神様はアダムが堕落したその日から、
そのすべてを再び回復するために、
今まで身もだえしてこられたことを私たちは知らなくてはなりません。
希望の心をもち、み旨を成就した幸福な立場でアダムを呼ぶべきであった神様が、
み旨を成就できず悲しい立場でアダムを呼ぶようになったのです。
神様が「アダムよ!アダムよ!」と呼んだその日は、
アダムを喜んで迎えることのできる日ではありませんでした。
その日は福地を失った日であり、
自身の人格が壊れてしまう日であり、
天地の運勢が逆になってしまった日なのです。
神様が悲痛な心情でその日を迎え叫ばれた一言が
「アダムよ、お前はどこにいるのか」という言葉でした。
その日から、神様は
失った福地を再び探すために歩まれました。
神様は福地という名前を未来に残して、
その福地を築くための歴史的な路程をたどりながら
今日まで役事してこられたのです。
アダムが堕落した悲しい日、
神様はその恨を
「アダムよ、お前はどこにいるのか」という一言で叫ばれたのです。
それは福地を失った悲しみから始まった嘆きであり、
叫びでした。
自分の行動が天倫に背いたのだという事実を知り、
告白するアダムに対する神様が
悲しくなく、嘆かずにいられたわけがありません。
私たちはもう一度神様の悲しみを感じなければなりません。
それゆえ、神様はアダム以後六千年間悲しみとともに、
福地を回復するために切実な思いで走ってこられました。
しかし、人間は
神様が目的とされる福地を築くための叫びの前に一つになれず、
共にその道を探して歩むことができなかったのです。
これもまた、神様の悲しみと憤りになったということを
私たちは知らなければなりません。
復帰の道を歩んでこられながら、神様は
アブラハムを召命されました。
「アブラハムよ!」というそのみ声は、
アブラハム一人だけを呼ぶものではありませんでした。
それはその昔、
アダムのとき骨身にしみついた恨の心を抱き、
その時失った福地を再び探し出そうとする叫びであり、
同時に
新しい福地の主人を再び呼ばれるみ声であり、
福地の家庭と
福地の民族と
福地の世界を築くためのみ声であった
ということを
私たちは知らなくてはなりません。
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嘆かわしい悲惨な歴史を収拾するために、神様は
アブラハムを選ばれ、流浪の生活をさせたのです。
そのようにしてアブラハムは、慣れ親しんだ地、故郷の山河をあとにして、
旅人の路程を歩むという悲惨な運命の道を選ばざるを得ませんでした。
ですから、アブラハムの行く道は、悲惨な道でした。
国境を行ったり来たりしなければなりませんでした。
ジプシーの隊列に入らなければなりませんでした。
異邦の地で、よそ者の立場を免れることができなかったのです。
そればかりでなく、パロの奸計によって
自分の妻を奪われ、自分の一族が孤立する状態にまで追い込まれました。
しかし、そのように追われる行路でも、アブラハムは、
自分の父母と親戚から愛を受けて豊かに暮らすことよりも、
イスラエル民族が自分を呼んでおり、
勝利が自分を呼んでおり、
幸福の基盤が自分を求めているということを切実に感じたのです。
それで、ジプシーの行路でも、夜空の星を見ながら
ただひたすら神様に願ったことは、
望みの天国に行かせてほしいということだけでした。
それで、神様はアブラハムを祝福してくださったのです。
彼の前に迫り来るつらい苦痛と困難な環境は、
ほかの人なら、自分を呼び出した神様に背いて
自分の立場を嘆いていたはずですが、
アブラハムはそのような立場でも、
神様とより深い因縁を結べる心情で侍っていったので、
彼の前には幸福の門が開くようになったのです。
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以下
▼「訓教経(上)/神様の一線に立つ私たち」より
百二十年間ノアは
数多くの怨警の群れと、頼る所なく孤独な立場で闘いました。
槍を持って戦うのではなく、心で闘いました。
怨讐たちの槍が体を刺したのではなく、
心を刺したのです。
アダム以後千六百年間傷を受けてこられた神様に代わって、
心に傷を負ったのです。
そうして、彼が神様の同情することのできる立場に立ったがゆえに、
神様は彼を訪ねてこられたのです。
その後も、千六百年間苦労された神様の一線であるその箱舟の告知を、
ノアはサタンに奪われることがなかったので、
神様はそれを中心として天使を動員し、洪水審判をなさることができたのです。
こうして、かろうじて神様だけが扱うことのできる第一線として
ノアの箱舟を立てましたが、
そこに再びサタンの一線が生じました。
千六百年間悔しくも攻撃され、サタンの矢を受けなければならなかった事実をすべて整理して、一つの勝利的な一線をそろえて平和の園を立てなければならないノアの家庭に、
再びサタンの一線が生じたのです。
これは恨めしいことです。
ハムの失敗は、
個人的な失敗に終わるのではなく歴史的な失敗であり、
ノアの悔しい思いは、
個人的なものではなく天宙的なものでした。
ところが、このような事実をハムは知りませんでした。
一個人として選び立てられたノアも、
自分がそのように大きく使われていて、
そのように大きな価値のある存在であることを知りませんでした。
地を審判し尽くし、多くの民族を魚のえさにしても、
ノアの八人の家族だけは生かしたという神様の限りない愛を
彼らは知らなかったのです。
ノアの八人の家族のいる所は、神様の愛の一線でした。
それゆえ、ハムの失敗がそのように大きい恨みをもたらしたのです。
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神様の愛の一線が侵されるや、
神様は侵されたその場所にいることができなくなり、
彼らをみなサタンに差し出し、
四百年間その民族を抱えて悔しい思いをされたのです。
そして神様は、二千年ぶりにアブラハムを探して立てました。
かろうじて立てた神様の一線に、
神様の代わりに人間を立て、
人間をしてサタンを屈服させようとされたのが神様のみ旨なのです。
それで神様はアブラハムを立て、
続いてイサク、ヤコブの三代を経て、
ようやく人間に対する作戦を開始することのできる土台を立ててこられたのです。
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アダム的権威(Adamic authority)を持つ方だからこそ
語ることのできる御言葉
魂が揺さぶられます
アージュ!!!