アダムとエバが堕落したとき、ルーシェルの裏切りと破壊行為は
神さまの創造の計画を台無しにするほど深刻であり、
神さまはルーシェルを裁きました。
それは決して小さな罪ではありません。
聖書はこう記しています。
▼(創世記3:14-15)
主なる神は蛇に言われた、
「お前は、このことをしたので、
すべての家畜、野のすべての獣のうち、最も呪われる。
お前は、腹で這い歩き、一生、塵を食らうであろう。
私は恨みをおく、お前と女との間に、
お前の末と女の末との間に。
彼はお前の頭を砕き、
お前は彼のかかとを砕くであろう」。
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文総裁が逝去するほんのひと月前、文総裁は、
指導者たちを
ルーシェルよりもっと悪く、彼らの裏切り行為は
ルーシェルのものよりはかに重大だと、
大激怒されました。
文総裁がこれほどまでに厳しい審判を下したのは、
彼らのいったいどのような極悪非道な行為によるものだったのでしょうか。
それは、神さまの摂理と
文総裁のメシア的使命に対する原理的観点を知ってこそ
理解することができます。
指導者たちは、
その核心となる摂理的基準に
背いたのです。
原理的な観点から見ますと、
メシアは創造目的を成し遂げるために来られます。
それは、この地に
神さまの実体的な真の家庭を立てることです。
さらには最初の家庭の2世代にわたる失敗、
すなわちアダムとエバの失敗、
そしてカインとアベルの失敗を復帰しなければなりません。
神さまを中心とした家庭の先例として、
真の家庭では、家族の全員が
それぞれの役割と秩序の中で
神さまを迎え侍る人生を生きる必要があるのです。
人間は堕落によりこのような家庭を失ったので、
このようなモデル的家庭を復帰することが非常に重要です。
その基盤の上で
父と息子が神さまと絶対的に一致し、
3代の縦的な基準と伝統を、人類のための
先例として残さなければならないのです。
総裁はこう説明しています。
▼(文鮮明先生御言葉選集vol.280,p167,1996.11.24)
神は天国の王であり、
アダムは地上の王であり、
アダムの息子は天国と地上の王として
成長するのです。
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▼(文鮮明先生御言葉選集vol.270,p258,1995.7.16)
三大王権はアダムとエバが
息子娘を産んでこそ完成されるのです…
霊界を代表するのはおじいさんを代表した神であり、
アダムとエバは現在を代表します。
過去・現在・未来です。
現在を代表するアダムとエバを中心として
未来を代表する息子娘が出てきますが、
正から分かれたものが再び合わなければならないのです。
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このような縦的軸を通じて、神さまは
自分の人生に神さまを迎え侍ろうとするすべての家庭に、
神さまの恵みと祝福を与えます。
総裁はこれを、
三大王権とおっしゃいました。
み言を見てみましょう。
▼(文鮮明先生御言葉選集vol.264,p195,1994.10.9)
四大心情圏と三大王権を完成しなければなりません。
おじいさんは神の代身です。
父は第二世代の中心となるので、
この世界の家庭の王となるのです。
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時が経つにつれて、
世界的に拡大された神さまの下の一つの平和な家庭、
すなわち真なる神さまの主権が
自然に立てられるのです。
真の家庭は公的な家庭として、
真の愛を体現し、
より大きな善のために生きて犠牲を払い、
それによって
神さまの真理と義と善を明らかにしようとする家庭です。
それは単に、文総裁個人の家庭を指すのではなく、
神さまの人類復帰摂理のための重要な道具であることを意味しているのです。
また真の家庭が
神さまを正しく迎え侍り、真の愛を実践する姿は、
すべての個人と家庭が見習うべき、生きた青写真の
役割を果たすでしょう。
このように
神さまの摂理において
真の家庭は中心的立場にあります。
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草創期に文総裁は、
キリスト教指導者たちによって準備された基盤から
受け入れられませんでした。
したがって、文総裁はメシア的・摂理的な働きをするために必要な
基盤を築く必要がありました。
そのため1954年に世界基督教統一神霊協会を創立しました。
その後40年間、荒野の道を歩み、
世界的な次元で本来のメシア的使命を始めることができる道を
切り開きました。
人々は、総裁の運動を、統一教会と呼んで批判したりもしましたが、
総裁は決して、教会を作るつもりではありませんでした。
総裁はこう言われました。
▼(文鮮明師「平和を愛する世界人として」p132-133)
後日、私たちの名前になった「統一教会」は、
実際には人々がつけてくれた名前です…。
仕方なく教会の看板をつけたにすぎず、
心の中ではいつでもその看板を外したい思いです。
教会という看板をつけた瞬間、
教会は教会でないものと区別されます。
一つのものを二つに分けることは正しいことではありません。
それは私が夢みることでもなく、
私が行くべき道でもありません。
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しかし呆れたことに、草創期に導かれた1世の指導者たちは、
原理講論の根本的な教えを
誤って理解してしまいました。
原理はイエス・キリストの教えとアイデンティティについて
新しい観点をもたらしましたが、彼らは
キリスト教と全く同じ視点で
文総裁の啓示を解釈してしまったのです。
そうして初期の1世指導者たちは、
総裁がクリスチャンに抜け出ることを願われた、まさにその教会の枠組に
この運動を引き戻してしまいました。
これらの元老たちは、
キリスト教の教理的枠組を誤って受け入れ、
総裁を神格化し
自分たちを、総裁と一般食口たちの間の仲介者として立てました。
要するに、彼らは
総裁の使命と働きに対する間違った理解を助長させ、
本質的に総裁の摂理的運動を、
既成キリスト教教会の一分派として格下げしました。
後述するように、
新しく任命された世代の指導者たちは、
彼らの非原理的な目論見のために
この枠組を継承して利用することになります。
(次に続く)